文芸社『A』 Vol 5 [1999]
    
「全ての男女は星である」 - アレイスター・クロウリー
そこは56億7千万年前の地球であった。
      まっすぐに広がる地平線の向こうに、森があった。
      雨が降っていた。
      きっと、もう何億年も間降り続いていて、これからも降り続けるのであろう。
      誰もいない。ただ、雨が降っていた。
      
    
その時、私は気がついた。
      誰もいない。しかし「誰か」がいる。
      この雨を降らし続けているある存在、ある意図。
      深い、透明なかなしみに満ち、不可視の輝きをまとう「あの御方」。
      茫然自失となった私は、いつのまにか泣き崩れていた。
      涙は止まらなかった。
      
    
雨は、今も降り続いている。
      
    
先日、千葉の浜金谷という小さな浜辺を訪れた。
      寄せては返す波を眺めながら、私はもっと大きな波を感じていた。
      全てが揺れ動いている、水も、大気も、私たちも。
      私は地球の中心について考えていた。
      空を見上げると、白い月と太陽が並んでいた。
      そうか。「波」は星の世界まで達しているのだ。
      全てはグラデーションであった。
    どこにも中心がなく、無限の円周を持つ円。
    
    
「あらゆる数は無限である。いかなる差異もない。」
20世紀最大の神秘家、アレイスター・クロウリーの言葉を憶いだした。
「全ての男女は星である」
       私は、4年前の幻視体験で遭遇した「あの御方」に再会した。
      (その名は、隠され、明かされている。)
    
     仏教における究極的救済、マイトレーヤ(弥勒)の降臨は56億7千万年「後」とされている。
    私が幻視した56億7千万年「前」の地球が、今私がいるこの星のことなのか、どこか別の惑星なのかはわからない。しかしそれはやはり「地球」であった。私の源、遍く宇宙に満ちる生命の第一質量(プリマ・マテリア)、ガイア。
    
    
 時間もまた、波である。「いま」を中心に、無限の円周へと向かうグラデーションとして時間をイメージする時、「ここ」を中心として無限に広がる空間との差異は消滅し、ひとつの球としての宇宙が像を結ぶ。
      
    
 球の中心は「いま、ここ Now Here」である。そしてそこは「どこでもない Nowhere」。円周が無限であるならば、中心もまた存在し得ないからだ。これはユダヤ教神秘思想の精髄カバラの宇宙観においてエン・ソフ・アウル、無限の光として言及される宇宙の元像である。カバラにおいては、この無限の光が一転に収縮することにより、神の自意識「宇宙」が顕現する。この一点をケテルといい、以降全ての事象がそこから流れ出す源となるわけだが、NowhereからNow Hereへの収縮、凝固のプロセスとして時空のなりたちが説明されていると捉えれば、そのまま私たちの自意識のなりたちも当て嵌まる。(ケテルは人体において頭頂部、クラウンチャクラに照応する。)「上なるものは下なるものに等しく Quod est suprius, sicut est inferius」、デルフォイの門には「汝自身を知れ」と記されているのだ。
      
    
 浜金谷の浜辺に、一匹のクラゲが打ち上げられているのを見た。エデンを離れ、悠久の時を旅してきた人間からみれば、すでに理解不可能なほど、単純な生命。薄皮一枚で覆われた海、凝固した海そのもののようなそのクラゲの体に、私は遍在するケテルをみた。眺めていると、一匹のフナムシがひょい、とクラゲの亡骸に飛び乗り、もろとも波がさらっていった。Now Hereを生きたクラゲは再び、Nowhereの海へと溶けていく。高まり、鎮まっていく生命のバイブレーションは、星の世界まで達していた。空虚はどこにもない。全ては満ち、揺らいでいる。私は持参したハーモニカを吹いてみた。その音も、揺らぎ、響き、星に共鳴した。寄せては返す波のように、私はそこで、揺らいでいたのだった。
      
    
 エデンに永くは留まれない。人間は自由意志によってエデンを出たのだ。この連載もまた、エデン回帰と出エデンの物語を共に包含している。エデンを憶いだし、再びエデンを出るという作業が必要なのだ。楽園を後にしたあなたはどこへ向かうべきか、もしかしたら、あなたはその孤独な問いに愕然としているかもしれないけども。
      
    
決まってるじゃないか。私は私を待つ恋人のもとへ還っていくのだ。
    それがモテるということである。